"中立"でいる

·····偉そうなことは言えない。

かと言って自己卑下は違う。

 

ヒトの心は、"中立"でいることが難しいようだ。

勝手に"自分はダメだ"と思ったり、

傲慢になったりする。

 

「医学」的に観れば、自分のカラダは

その構造もはたらき(生理)も

まるで"奇跡"を見ているようなものだ。

 

「筋肉」が硬くなって、

『血管』が細く柔軟性がなくなったら、『心臓』の鼓動かってに早くなるし、

 

「筋肉」の力を脱いてリラックスすると、

『脈拍』も感じられないほど"弛く"、ゆっくりになる。

 

一度、自分で試してみるといい。

 

たまに自分(体を借りている)が

意識して緩めてやらないと、

高血圧や動脈硬化を起こすかも知れない。

 

「頑張り過ぎ」に気をつけて、

時々カラダを休め、ゆったりさせることは、『奇跡のはたらき(生理)』に対する

"感謝"の儀式なのだろう。

 

m(_ _)m

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2024/04/22

"中立"でいる

·····偉そうなことは言えない。

かと言って自己卑下は違う。

 

ヒトの心は、"中立"でいることが難しいようだ。

勝手に"自分はダメだ"と思ったり、

傲慢になったりする。

 

「医学」的に観れば、自分のカラダは

その構造もはたらき(生理)も

まるで"奇跡"を見ているようなものだ。

 

「筋肉」が硬くなって、

『血管』が細く柔軟性がなくなったら、『心臓』の鼓動かってに早くなるし、

 

「筋肉」の力を脱いてリラックスすると、

『脈拍』も感じられないほど"弛く"、ゆっくりになる。

 

だけど、たまに自分(体を借りている)が

意識して緩めてやらないと、

高血圧や動脈硬化を起こすかも知れない。

 

「頑張り過ぎ」に気をつけて、

時々カラダを休め、ゆったりさせることは、『奇跡のはたらき(生理)』に対する

"感謝"の儀式なのだろう。

 

m(_ _)m

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2024/04/22

過ぎ越しの気づき

30うん歳の頃、関西から東京の新宿に単身赴任で"仕事も事務所"、寝るのも"事務所"、だった。

 

数年続くと、事務所(支社)に帰って「食事」の仕度をするのさえ酷い苦痛になった。

 

食事の準備は面倒くさいし、

ひとりっきりの食事も味気ない、そして、時々 虚しくもなる。

 

シゴトも休養も"同じ場所"だと『気分転換』が出来ず、ストレスが少しづつ溜まっていくようだ。

 

仕事の成績は  わるくはなかったと思うが

一人で飲みに行く気にもなれず、晩食をすることさえ億劫になってしまった。

 

これではいけないと数日悩んでいた。

 

そしてある時、ふっと

"もしかすると料理が趣味と思えば···"

という考えが浮かんできた。

 

"ちょっと手の込んだディナーを···"

"少し洒落たセッティングもして····"

"一輪挿しでも飾ってみようか···?"

     ·····なんて、想像してみた。

 

··········なんだろう、

仕事と寝場所の環境も、いま置かれている状況も、なにも変わっていないのに、

『晩食準備のストレス』が

一気に消えてしまった。

 

·····そう、物事への視点を、ほんの僅かずらすだけで、"現実"は変わる。

もしかすると"今"の『苦しさ』もそうなのかもしれない。

 

この気づきは、

"苦もまた楽の生みの親"   ってことなのか··。

人生の目的

私たちは、この人生に、何を目的に来たのだろうか。

  人生の意義や目的が分からず、右往左往している人が多いのが現実のように思う。

 

何か大きな事業を成し遂げるために、生まれて来たわけじゃない、のは何となくわかる。

 

"私"として、なぜ、この環境、この時代に生まれて来たのだろう?

 

     ········································

今日、気づきを戴いたのは、"経験しに来た"    ·····ということだ。

 

目的が分からず右往左往することも、人生の意義が見えないことを悩むのも、きっと意味のあることなのだろう。

 

何でも積極的に"経験"をして行こうとする。

そして"穏やかな目で"、愛ある第三者の心で

自らを外から眺める·····。

 

"失敗"もいい。

"愛"が見えなくて苦しむのも、いい。

 

人生の終盤に近づけば「唯の経験」だったことが解るだろう。

それもすべてが懐かしく、ほろ苦いものに

変わるかもしれない。

       ········································

大きな成功を人生で収めた方の話を聴くと、

ほとんどの成功者が「苦労」や『失敗』を

懐かしそうに語るのだそうだ。

 

上手くいったことの意義は、

人生に於いて"失敗の経験"より、もしかすると低い位置にあるのかも知れない。

 

確かに、

学べるものは"失敗"からの方が多い。

 

人を傷つけるとか、苦しめるような間違いや失敗でなければ、歡んでやればいい。

·····もしかすると、その為に此処に来たのだ。

今まで何をしていたんだろうか?

やっと「成功」、「願望達成」の答えに

出会わされた。

長かったのか、短かったのか、分からないけど、未だまだ気づいていないヒトの方が

多いように思う。

 

きっと、人生の中で何度も耳にして

いるはずだ。

だけど、ヒトにはそれぞれ臨機、

タイミングがあるのだろう。

 

ヒトはその時期にない者は、

目の前にぶら下げられても"見えない"

のだろう。

 

ただ

自分の本体は、"意識"、"魂"なのだという

認識がその根底に在ってこそなのだろう、

と思う。

 

全てが、すでに"自分の中に"有った。

"すでに在る"の真実がやっと分かった。

今はそう思っている。

 

"真実"をみよう。自分の心に真摯でいよう

今日、「硫黄島からの手紙」という映画の内容を少し知った。

メガフォンをとった「クリント・イーストウッド」は、

日本軍を生命を粗末にする"ゾンビ軍団"のように忌み嫌っていたようだ。

 

·····違う。

"ゾンビ軍団は"違うと思う。

 

多くの海外の方たちは、日本人の

「腹切り(切腹)」「玉砕」「特攻(カミカゼ)」

などを知って、

 

日本人は"生命"を粗末にする、『人命尊重』の意識が低い、などと見ているようだ。

 

「腹切り(切腹)」は、(いいとはいえないが)

"自分のことは自分で始末する"

"腹からの想い"

"二心はない"(嘘のない心)

を武士道の心をカタチにしたものだと思うし、

 

「玉砕」や「特攻」は、

"義のため"、"愛"するもののため、という

心の大きさ、だと考えている。

 

日本を守る、結果として、

"愛するもの"を『死を賭しても守る』と

いう"心"だ。

 

安易に"死を選ぶ"ことは、

与えられた『生命』への冒涜と言える。

 

私たちは"生きている"のではなく、

生命のエネルギーに"生かされて"いる。

 

自分のカラダの約37兆個と云われる

"細胞たち"の一つ一つは、すべて

生命を持っている。

 

そして37兆個分の"意識"を持って

私たちを"生かし"、"生かし続ける"ために、

『生きて』いる。

 

だから"生命"を軽々しく扱ってはならない。

 

ただ、それほど重く大切なものを

"愛するもの"の為に賭する、という『覚悟』だ。

 

大切な愛するものへの

"意識(愛)"の大きさ、だ。

 

自分のなかの"愛する心"は

どうだろうか·····。

ちゃんとあるだろうか。

 

"愛"の為、掛け替えのない自分の…"生命"を

賭するほどの覚悟はあるだろうか。

 

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信じているのに、行動できない

すべてのヒトは"神さまの子"らしい。

『師』は、"神さま"と「仏」を同等に

云われていた。

古神道』で云う「天照大御神」に相応する

"如来"さまもおられたように思う。

 

きっと『仏教』も、カタチを変えた"神さま"

の教えなのだ。

 

全世界を"神さま"が創造されたのなら、

「我が子」の幸せと悦びのために、手を変え品を変えて、あらゆる手段を高じ、持てる力で最善を尽くされるだろう。

 

けれど「親の心子知らず」で、

私たちは『神理』から目を背け、自堕落に好き勝手に生きている。

 

勝手に自分で制限をつくり、悲嘆にくれ、

酷い苦しみのなかで喘いでいる。

 

「イエスさま」は「神の子」と云われ、

ブッダ」は「仏子」だと云われた。